石柱の広場コンプレックス

石柱の広場コンプレックス

「石柱の広場」と「太陽のピラミッド北の広場」

死者の大通り沿いにある大規模な発掘が行われてきた建造物群とは異なり、「石柱の広場」と「太陽のピラミッド北の広場」は、テオティワカン考古区域の中心に位置しながらも、あまり研究されてきませんでした。9_MapTeoMillon_En.png

Map of the ceremonial center of Teotihuacan. Modified from Millon (1973). In red is the Plaza of Columns and in blue the Plaza North of the Sun Pyramid.

私たちが現在「石柱の広場」として知っているものへの最初の言及は、Gumersindo Mendoza教授による1878年の報告でした。

「ピラミッドから離れた一帯に、石積みされたピラミッドがあった。歴史家Torquemadaは著作Monarquía Indianaで、当時2万個以上があったとする...。

通り〔死者の大通り〕の前に約300メートル広がり、示したように、正三角形状の5つの石積みがある。農民たちはこの場所を石柱の小広場 plazuela de las columnas と呼んでいた。最近石切り工のつるはしで壊されてしまい、描かれていた絵文字も失われてしまった。この町に橋をかけるためにだ!事実、大きな入り口の跡がまだ見えている。つまり、5つの石積みは宮殿跡と思われる。人々を治める高位の神官や王たちが住み、2つの大ピラミッドを建設し、半径1レグア半はある大都市だったのだ!」(Mendoza, 1878, p. 188)

以降、研究者たちは、神官や支配者といった有力者がこの場所に住んでいたという可能性を考えてきました。 


「石柱の広場コンプレックス」における初期の調査は以下のとおりです。

人類学局(第三節:Gamio, 1922)がテオティワカン区域にて計45地点で試掘したうち、「石柱の広場」(No.14)で2か所、太陽のピラミッド北の広場(No.15)で1か所。試掘坑は、テオティワカンの各地点で層序断面図を作成し、岩盤の深さを測るためのものでした。

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1897年、García Cubasの「太陽のピラミッド北の広場」南東区域での発掘調査報告書には、最新の発見が記されています。

「祭壇の発見は、高くなっていて磨かれた2つの床面にある3つの壁跡から明らかとなった。建造物周辺を発掘したところ、小さな台座の付いたピラミッドを発見した。よく磨かれていたが損傷が激しく、北側に位置していた。東側では、一階までの赤色の大階段を伴う垂直壁が見つかった。片面にもう一つあり、上方へと伸びていた。最後に、西側では、上側の状態が悪く、下側は保存されている壁状のものがあった。また、赤色に塗られた傾斜面があり、上が白く塗られた赤色の四角い繰形で支えている。その繰形の上から、壁が装飾されている。規則性のない青・赤・緑色の斜線と、白く塗られた爪ははっきり見えるものの輪郭線が薄れてしまっている奇妙な動物が描かれている。西から東へと同様の壁がのびているが、絵は描かれていない。発掘を続けると、自然にマウンドが分かれ、後壁は擁壁として用いられていた。このような調査結果から、祭壇下部の建築構造がわかった。石灰の混ざっていない厚いアドべ(日干し煉瓦)層の上に、緩い石積みがされていた。」 (García Cubas, 1897, pp. 550-551)

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Map modified from Gamio (1922). The red circle highlights some of the areas explored by García Cubas (1897), associated to the Plaza North of the Sun Pyramid.

残念ながら、García Cubasが報告したものは今日何も保存されていません。1922年、Gamioは、これらの遺物があったマウンドが壊され、埋め戻した土が同じ場所に堆積していたと記しています。装飾があった壁、なかでもGarcía Cubasが示した壁画は失われてしまいました。

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Antonio García Cubas. Source: Iguíniz (1912)

「石柱の広場」と「太陽のピラミッド北の広場」は平行かつ対称に建設されたと仮説をたて、発掘を通じてまさに立証しようとしています。地表では、「石柱の広場」が連続的に複数の建設計画を通じて拡大したのに対し、「太陽のピラミッド北の広場」もっとゆっくりと発展したことが見て取れます。「石柱の広場」の主要なマウンドは、太陽のピラミッド、月のピラミッド、羽毛の蛇神殿に次いで、4番目に高い構造物です。加えて、「石柱の広場」の深い堆積物は、都市と住人の歴史 -その地域における最初の開拓者から、太陽と月のピラミッドのようなより大きな建造物を作りはじめた頃までの― をほぼ完全な形で示してくれるでしょう。


References

Gamio, M. (Director of investigations, various authors). 1922. La Población del Valle de Teotihuacan, el Medio en que se ha Desarrollado su Evolución Étnica y Social. Iniciativas para Procurar su Mejoramiento por la Dirección de Antropología. Tomos I, II, y III. Dirección de Antropología, Dirección de Talleres Gráficos, Dependiente de la Secretaría de Educación Pública, Mexico.

García Cubas, A. 1897. Congreso Internacional de Americanistas. Actas de la Undécima Reunión, Mexico, pp. 548-551.

Mendoza, G. 1878. Las Pirámides de Teotihuacan. Anales del Museo Nacional de Mexico 1: 186-195.

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